心の醜さ

自分が無意識のうちに、自分の嫌いなタイプの人間になっていることが嫌だ。だから考えに考えてこの発言は正しいと感じ、他人にもそう思ってもらえるだろうと感じたときしか話せない。卑怯だと思う。自己開示をせずに逃げることは。

これを繰り返してできる関係を真の人間関係と言えるだろうか。本音を言わず、自分の真意も過去も明かさずに話すことを会話と言えるだろうか。
そうだ、言えないから私は苦しいのだ。しかし、自分の心の最も言語化したくもないような醜さを突き付けられ、攻撃され、それを受け入れたくない気持ちとそれが事実である以上受け入れなければいけないと言う葛藤を感じたくない。

そういう自己防衛の果てに私は集団に溶けている感覚が得られない。本当は感覚的に理解していないであろうものも、予防線を張る形でわかっているけれどできないなどと偉そうに言い張ってしまう。分かっていると言うことによって自分の正しさを証明しようと必死になっている自分がバカバカしい。

そして一連の考え方のすべてが自分の醜さであり、もし深読みをされてこの考えですら暴かれてしまったらどうしようと思う。それを突き付けられて私は正気でいられるだろうかと。

自分自身ですら常にAという考えが浮かべばBという否定を思い付き、さらにそれに対する否定が延々と生み出されて結果的には反芻思考をしてしまうというのに、他人に否定される恐怖は計り知れない。

いっそのこと、知らない人にだけでも打ち明けてみようとは思ったりもするが、その瞬間、それは迷惑ではないかとか間違いではないかとかどうせまた平穏な人間であるふりをするだろうという反論が思い浮かぶ。
そしてさらにその反論に対してそれこそが自分の弱さや正当化の心の表れであり、真の醜さであるという反論が思い浮かぶ。文字通りに思考が止まらない。常に、パズルのようにハマる正しさを求め続けている。

正直言って解決方法はその瞬間は苦しくても厳しい他者にズバッと事実を指摘されて、苦しみぬいて解放されるぐらいしかないと思う。
とはいえ、指摘されてみれば意外と自分の醜さというものはそこまで重大でないと言われて拍子抜けしてしまう気もするし、そんなことを考えれば今ここで悩む必要すらないということになる。

しかし、それでは本当に私の傲慢で怠惰な醜さが重大であったとき、私の苦しみも罪ももっと大きくなるだけだろう。つまり、今はとにかく他者からの指摘を恐れていようがそれを無視してわざと苦しむことが必要なのだ。

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