店員

「僕は、店員をロボットだと思っていた。」

…というとなんだか語弊があるように感じる。正しくは、歯車というか背景というか。そんな非人間的なものに見えていた。

たとえば服屋の店員なら、服を畳んだり、ハンガーにかけたりしながら、お客様に対して、「いらっしゃいませー」「ごゆっくりご覧ください」などと、客が通るたびに機械のように高いトーンで話す。これがなんだか不気味なのだ。どうしていつもいつも同じことを繰り返しているのだろう。どうして別の作業を並行して行えるのだろう。どうしてそんなに丁寧に声が裏返らずに話せるのだろう。

とても、奇妙だった。だから、「人間」として見ることができなかった。店員というものは店という背景を回す歯車の一つであり、何かの意思によって動かされているロボットであるかのように思えた。小説や漫画の登場人物を見るのと似た感覚だった。

でももちろん、店員は店員という役職があるだけの人間にすぎない。みな個人なのだ。集合の中にあろうと、それは別の人間である。そんなことは、小学生の自分にだって分かった。でも、感覚として店員は人間じゃないというものが心にはあった。そのロボットというのも、あくまで「機械的」であることの例えだ。決して社畜だとか社会の歯車だとかそういうことを言いたいわけではない。

だがしかし、そんな感覚が今消えてしまうかもしれない。自分も店員になるかもしれないからだ。もう働ける年齢になってしまったのだ。今までは背景ではない側にいたと思っていたのにもう、なろうと思えば私はロボットになれるのだ。客…特に子供なんかは背景とは程遠く感じていて、自分自身もまだそのつもりでいた。だが、私はもう他人から見て私が思うようなロボットになってしまうのかもしれない。私は今までロボットをたくさん見てきたが、それが今度は自分の番なのだと。自分はそちら側へ溶け行くのだと気づいた。これは仕方のないことだ。自分が店の歯車として認識されるというのはなんだか不思議な感覚だ。人権を奪われるのではないかと、そんな不思議な感覚になる。だが、他人から背景という認識をされても意思がないように見えても私の意思は私の中にあり、私は私を「π=p」として認識し続けるのだろう。

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