今日は久しぶりに目的もなく歩く事にした。もう秋とは言へどまだ暑さが残る。故に早朝5時に家を出た。私が最も好む時間帯である。本当にいつぶりだろうか。こんなにも頭の中が何かしらの物事で埋め尽くされてゐるのに目的も定まらず居ても立つてもゐられないのは。
あゝここ最近は外出に意味が有り過ぎたのだ。行かねばならぬという目的のある時のみ外に出るばかりであつた。単純に暑さのせいもあるだろうが、私自身の自分を縛り過ぎてしまふ癖によつてそんなふうに自分を閉じ込めてゐたといふことも否めない。
この時期になると日の出も随分と遅くなるものだなと、依然暗い空を見上げる。だが少しずつ東の空から明かりが差してきた。いつもなら寫眞に収めただろう。しかし今日はとてもそんな気分にはなれなかつた。一瞬を急いて取り留めて永遠とするよりかは一瞬を一瞬のままにしておきたかつたのだ。
夜はあんなにも長かつたのに明けるのは速いもので、十数分ほど道を歩き小橋に差し掛かつたあたりで空はほとんど明らんだ。私がこの午前5時頃が好きな理由はそれだ。生きとし生けるものすべての宿命がこの時間に集約され空はそれを美しさとして私に教える。この儚さを常に突き付けられている。早起きは三文の徳とはよく言つたものだ。早朝を知る者は夜の儚さを知る者であるから。
情景に思考を巡らせ思いつく限り世界を広げ氣の赴くまま進みたい道へ進む。一切の躊躇も意味も排除して。そして私はまたそこへ誘われることを知らなかつた。何もかもを恐るる心忘れ、見ず知らずの小道へと好奇心の隨に突き進む。そこはコスモス畑であつた。一面が白と薄紅のコスモスに覆われてゐる。壮観だ。秋の花と言へばコスモスに彼岸花に金木犀あたりを思いつく。
金木犀はもう少し後で咲くだろうか?花そのものは小さくてもそのうつとりするような匂ひが秋といふ季節と密に結びついてゐる。彼岸花はこの時期にも咲いてゐるはずだが、私はコスモスのほうが好きだつた。彼岸花の美しさといふのは、その花が毒を持つ様に刺々しさがある。圧倒されてしまうのだ。其れよりかは、素朴で調和的であるコスモスを好む。
とはいへ、花や草木は大抵好きだ。特に花は。小学生の頃だろうか。私にはろくに友達などおらず、暇を持て余していた。その時、花壇ではない、ただの道端に咲く花に自分を見出し、また自分にないものを見出し憧れた。花は孤独でアスファルトに根を張つてしまう強さがある。もし来世といふものが在るならば私は花になりたかつた。それも道端に一輪だけ咲くような孤独な花になりたかつた。
夢破れた先にまだ生くる道が有ると分かつたあの日から、花への憧れは失せたし花になる氣も跡形もなく消え去つたが、ただその痕跡として私は花が好きになつた。人よりも余程花が好きだ。
そう、だから私は満開の花畑といふ深淵に迷い込む。ふと、後ろを振り返る。来た道は疾に消え、私の一歩後ろまでコスモスが咲いていた。あゝ、もう二度と来ることはないと思つていたのに。目の前には白いベンチが在る。お決まりの幻想に頭がクラクラしてしまふ。もう癖みたいなもので何となくベンチに腰掛ける。急度誰かが隣に来る。あゝほらやはり人影が、黑き人陰が一つ見える。
「御早う御座います」
私は俯き、返事をしなかつた。拗ねた子供の様であつた。こちらが何を言わずとも彼は話を続ける。
「久しいですね。貴方がここへ來なくなつてからもう幾年が過ぎたでせうか。」
「2、いや3年だ」
黙つたままといふのも流石によくないと思ひつつ、素つ氣ない返事をする。私がまたしても死を求め、死に向かひ、世を拒むとでも言ひたげな世界観に嫌気が差す。もう必要ないだろう?なぜなら私は生を肯定できるからだ。
「話したくないなら無理に話さなくても構ひません。ここから今すぐ帰るのも貴方の自由です。ここは貴方の爲の世界です。」
全てを見透かした様な彼の言葉に心底腹が立つ。私に逃げる権利を与えてきたことにも。こうなれば意地でもここに居座って話を聞くだけ聞くことにしようではないか。彼はまた奇妙なほど丁寧ではつきりとした声で単調に話し出す。
「貴方がここに導かれたということは、もうお分かりでせう。自覺のあるなしに依らず、貴方はまた迷っている。」
いや、そんなわけがない。私は曲がりなりにも生きていく強さと意味を獲得したのだから。私にはどんな絶望の淵でも足掻く意志と覺悟がある。寧ろそういう逆境でこそ命は輝くのだ。
それに、一人でも十分世界は楽しい。一生かかつても遊びきれないほど探せば遊びなどいくらでもある。別に他者を恐れ疎ましく思つて距離をとつてゐるわけでもない。死ぬ迄の間、最大限楽しみたいという自分の慾を踏まえ、あくまでも身の程を辨えているに過ぎない。
「さあ分からんね。まあ私は花を見に来たついでに話を聞くということにしておく。」
「有難うございます。座るだけといふのも何ですから、少し歩きませうか。この花畑には誰もゐませんよ。貴方と私以外。」
訝しみつつも、なんだかんだ流されて、すつと立ち上がる。あちらに道が御座いますと彼が指差す方を見てみれば、花畑の中に迷路のような細い道があつた。よく見るとコスモス以外の花も咲いている。
そこには桜にヒマワリに紫陽花に何なら世間では雑草に分類されるヒメオドリコソウなど多種多様な花々が咲き誇つていた。それにしてもここには季節といふものはないのだろうか。春なのか夏なのかはたまた秋なのか。まあここはそういう空間だ。そう、忌々しい場所だ。少し歩くと彼はまた話し始めた。
「懐かしいでしょう。この花。覺えていますか?私は覺えていませんがね。」
「…ミヤマカタバミ。」
「あゝそうでしたね。ところで、最近は何が好きなんです?そのご様子ですと何かあるんでせう。」
「讀書かな。まあでもその他色々。なんでも楽しい。でも、動いているものが好きかもしれない。」
そうだ、私は動くものが好きなんだ。動くものは飽きない。乗り物は動く、動物も動く、何なら自分自身も動くというか移ろひでいく。新しいことを知り、気付きを得て、変わつていく。
正確に言ふならば変化する様なのかもしれない。花もいずれ散る。夜もいずれ終わる。その動き、移ろひ。それらが自戒になる。己を現實に引き戻し、それだけが生きる道だと教えてくれる。そう、だから私にこの浮世離れした夢幻など必要ないのだ。
「またこの世界を必要ないと思つているのでせう。まあ私としてはこんな所に来る人は減つてほしいのですが。」
「じゃあ呼ぶんじやない。」
そう言うと彼は黙つてしまつた。私は氣にすることもなく無心でトボトボと歩いていたが突如行き止まりに足を止められた。あゝそういへばここは迷路だつたなとため息をつき、彼とともに引き返し、正解と思われる道のほうへ進む。
「貴方はここを必要としないぐらい強くなりましたね。でも、それと同時に人への期待を捨ててしまつた。もう、戻れませんよ貴方は。貴方の異常性と特異性を包むこの幻へ寄り縋る意志を擲つのですか?」
なんだ今更。もう疾うの昔に決めていたことであつた。誰へも無意味に寄り縋ることなどないと。情緒的に満たされ救われたいなどという他者への期待はない。
自分で自分の責任で自分の意志で自分を樂しませるのが生きる目的で意味だ。哀れだと言ひたいのなら勝手に言へば良い。嘲笑ひたいのなら勝手に嘲笑へば良い。
「孤独はお嫌いなのではないですか。」
「御生憎様、人なら尽きることなく居る。お前は先程から何度も何度も私の神経を逆撫でしてくる。それで本当に淸掃人か?」
もう帰ろうか。何となく付き合つてみたが、十分だろう。孤独だと?孤独に殺されるほど軟な人間になつた覺えはない。この場所に初めて来たときは慥かにこの世が嫌ひで死を望んでいたんだろう。だからこそここに招かれた。
彼曰く、ここに来るのは豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ様な揮発性の高い賢人だけだ。今の私はそうじやない。少なくとも豆腐にぶつかったぐらいでは死なない。彼は、少しの間を置いて見たことのない様な顔で話し始めた。
「淸掃人は深淵のプラザに迷い込む“賢人の”味方です。」
あゝやはり。招かれざる場所に私は招かれているのだな。私は賢人ではないのだ。世の有象無象の人々に悩まされ殺されていく命を持ち、利他の心と遥かな理想が慥かにそこ存在している賢人ではないのだ。
「貴方が居るから死ぬ賢人がいるのです。」
「死ねと?私に。」
「その様な意図は決して御座いません。ただ貴方はもう戻れないことを伝えただけです。」
分かっている。どれだけの命を潰してきたと思つている。もう戻ることなどできぬ。今更こんなところで無責任に死ぬことは到底できぬ。
自分のために死んでいつた命たちへの申し訳無さに苛まれているわけではないが責任が、責任だけが重くのしかかつている。自分には安息の地などないと常日頃から言い聞かせてきた私に深淵のプラザなど、自分を朽ちせしむる毒に他ならない。
「貴方は結局彼らになつてしまうのですか。あの有象無象共の中で溶けるのですか。苦しみを誰にも見てもらえないまま藻掻くのですか。」
「あゝ、溶けること以外はその通りだ。」
一切構わない。自分はどうせ誰かに助けられることなど叶わん。望んでもいない。これが最後の慈悲、休息地の提供なのだとしたら断つてやる。そんな物はいらない。甘やかしはもう懲り懲りである。
「然様なら清掃人。もうこれで本当に来ることはないのだろう。でも何でもない朝のちよつとした暇つぶしにはなつた。」
「分かりました。救ひ得ぬ人がどう死ぬか。深淵のプラザは門を閉ざして見つめることにします。」
彼がそう言つた途端、目の前が暗くなり、氣付くといつも行く、遊具などほとんど撤去されてしまつた寂れた公園にゐた。子供の頃遊んだジャングルジムも今はもうない。草が生い茂り、ここもいずれ人が消え自然に還るのだといふ雰囲気が漂う無常の場であつた。
私は足早にそこを去る。後味の悪い夢の名残が足を絡みとつてしまひそうだつたからだ。だが、これで一つ節目を迎え、過去にけりをつけることができた。真の覺悟を手に入れ、あの黑く深い正しく闇の様な場所に身を投じずとも、現世の苦しみの中で痛みとともに生の實感を味わひながら生きるのだ。
私は家路につく。午前6時半。人々が目を覺ましつつある黎明の終わり。いつものやうに見る空き地に日に照らされた自動販賣機があるのが見えた。氣まぐれにオレンジジユースを買ふ。いつもと変わらない飲み慣れた味だつた。
だが、散歩終わりにこうやつてゆつくりと飲み物を飲むのはとても楽しいことだ。生きる意味ですらある。惡夢は午前中に人に話せといふ。生憎、私の周りにはどれだけ人がゐようと話せる様な人はいない。
しかし、良いではないか。関わりに心を縛られて誰か、といふ決まつた人間に恋焦がれずとも、こんなことで先程の纏わりつくような夢の余韻は醒めていつたのだから。そう、深淵のプラザはもう要らない。私には私の孤立を恐れない生き方がある。
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