Twitter(X)でも度々言っているが、医者でもない、たとえ医者であったとしても自分が診てもいない他人を勝手に発達障害だなんだと断定するのは何事かと思う。特にインフルエンサーなどと呼ばれる発言力、影響力を持つ人物はそのような行いを控えるべきだろう。
たとえインフルエンサーでなくとも、人にレッテルを貼ることは控えるべきだが、他者の行動や思想に多大な影響を与えうる立場にある人が、そういう差別や偏見を助長するなど人としてあるまじき行為であろう。
小中学生の視聴者も多い人物が、この人はADHDだと思う、躁鬱だと思う。などという無責任な発言をしていて私は腸が煮えくり返るような思いである。無論、そのような言葉を無条件に信じる信者的な人々も批判するべきだが、まだ経験の浅い未成年がインターネットを容易に見ることができる訳だから、情報発信者は慎重になるべきである。
自身の影響力を理解し、自身の行動がどれだけ多くの人の言動に影響するかについて考えなければならない。インフルエンサーが行う配信などは井戸端会議や内輪ノリのような言動を行っていい場か?否、行ってはいけないであろう。
少数の閉じたコミュニティの中では笑える会話でも(実際には発達障害者への無理解を生んでいるが)、不特定多数が参加する場においては、発達障害だという断定はその本人に不利益をもたらしたり傷つけるどころか、すべての発達障害者への差別や偏見を助長することになる。
私自身もADHDを持つ人間であるため、ここ最近の嫌いな人間、少し変わった人間に対する発達障害のレッテル貼りには警鐘を鳴らしたい。インフルエンサーたちによって消費された発達障害という言葉は中身を伴わず宙ぶらりんとなり、人への無理解や差別を正当化する凶器になる。
最初はほんの些細ないじりのつもりだったかもしれないものが、大きな憎悪の渦となるのではないだろうか。私はそれを恐れている。発達障害はその能力の凹凸や低さによって社会生活上不便が出ることは当然であり、人に衝動的にきつい言い方などをしてしまったら嫌われる程度のことは仕方がない。それは健常者とて同じである。
しかし、こういう思考プロセスを踏んでいるからそういう思考になるという発達障害についての知識さえあれば得体のしれない恐怖感や意味不明なものへの苛立ちはなくなるはずである。だが、嫌いな人間をなんでもかんでも発達障害と何も考えないままレッテル貼りをすることで、最も理解から遠ざかることとなり、発達障害という言葉の知名度ばかりが上がって、その言葉は人を差別することを正当化する道具と成り果ててしまう。
私は当初、発達障害というものへの理解ではなく、認知が必要であると考えたが、多くの人々が歪んだ認知をしており、存在を知るだけでは全くの無意味どころかもはや逆に差別を生みかねないと感じた。とはいえ、自分と違う脳みその働きをする、まさに見てきた世界が違う人の理解を100%することは不可能であると言えよう。
そこで、必要なのは理解をしようという試み、努力である。100%は無理だとしても、少しずつ自分と違う人の考えを知ってみようとする心構えがあるだけで無用な差別は生まれないだろう。これに関しては、発達障害以外の障害を持つ人、他宗派の人、少数民族などありとあらゆる他者、特に少数派を不必要に傷つけないために有効である。
しかし、無責任なインフルエンサーたちのレッテル貼りや、現状を反映していない適当な説明(例:ASDは天才、ちょっとした忘れもの程度でADHDかもなどと決めつける)は、群衆にそのような思考を不可能にさせる。そのような嘘にまみれた突発的で無責任な発言は、発達障害者という少数弱者のために控えていただきたい。
なんの影響力もない私が言ったところで変わることなどない気もするが、インフルエンサー以外でも個々人が理解をしようとする精神を持つことで前進する事ができると考えているため、この記事を書いた。
私は己の立場も影響力も理解せず、差別、偏見、無理解を助長するような行いを決して許すことはない。たとえ自分の行動が人を、社会を変えることがないとしてもこの意志だけはここに表明しておきたい。
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