私は世界で独りぼっち、たった一人で終わりのない絶望を彷徨い、とっとと死ぬしかないと思い込んでいた。あまりにも、私の世界を見る心の目の視力が弱かったせいである。私が見ていた世界は、ぼんやりとしていて必要なことも重要なことも何もかも隠された薄暗い闇にほかならない。
しかし、私は世界の解像度をより高めるための眼鏡を手に入れた。それは、四六時中の思考を経て得た論理の眼鏡である。
私の世界には他者は長らく存在していなかった。どれだけ他人が周りにいようと、目の前にいて何かアクションをしていなければ私の注意が向かない。長いこと離れた場所にいる人間よりも目の前をよぎる蝶が私を引き付ける。その認知を極めた結果の孤独だった。周りには誰もいないと思っているし、そう思い込むから身近な他者を大切にできない。
私は数年にも及ぶ思考や探索の末、そう思い至った。私の世界にも意思を持った他者がいて、彼らは数多の人間がいる中、選択して私の近くにいる。風景でしかない他者、自分とは繋がりのないただの石ころ程度だとしか思えていなかったせいで、私は孤独を感じていた。
しかし、そうと分かったならば、論理の眼鏡を心の目にかけて、常に周りの状況を意識して分析し見つめればいいのだ。裸眼で察知するのが不可能だとしても、論理の眼鏡をかけるとある程度は過度にネガティヴな考え方を改めることができ、他者から見た自分、他者とのつながりを認識できるようになる。
とはいえ、大勢の人がオートでやることを頭を常に回し続けてマニュアルでやらなければいけないわけで、もちろん疲れる。だから、毎日1人の時間を確保し、息抜きをしなければいけないし、時たま、眼鏡をかけ忘れてうっかり失礼なことを言ってしまうこともある。
私は一生この眼鏡をかけ続けるつもりだ(もちろん更新はし続けるが)。でなければ、自分を不利にするどころか、他人に迷惑をかけてしまう。考えるのをやめた瞬間、私という人間は死ぬ。人を大切にするための心が死に絶える。
しかし、分かってしまったことがある。それは、どれだけ私の世界に他者がいたとしても、私は世間的には孤独の道を歩まざるを得ないということだ。なぜならば、他者から見ればくだらないであろうこだわりを守るために必死で、その上他者に合わせてばかりで自分を抑圧するとかえって心身ともに不健康になるからである。
どれだけ先人が苦労をして大きな道を作ったところで、それを分かり感謝したところで、その道を歩く人間が気に食わないからその道を歩けない。車輪の再発明とバカにされても自分の道を切り開かなければならない。
孤独という毒を飲むか。それとも何もかも偽って心身ともに破滅するか。私は前者を選ぼう。よりましな選択をする。今のところ自分と趣味や思想が合う相手なんていないためであるから、そういう相手が現れれば毒を飲む必要はないのだが。
でも、もう孤独でも怖くない。本音を語れないからと言って他者との関りが一切合切潰える訳ではなく、当たり前のように私の周りには私のことを覚えている他者がいる。絶望するような孤独ではない。私の中には、確かに他者がいて、誰かが生きた片鱗も私の中にある。
自分が今使っている言葉も考え方も物も何もかも、他者が存在する/した証である。そう考えると多くの人の命が私の命に関連していて、私の命もまた多くの人の命に関連しているのである。そう考えるうちに、自然と生きていたいと思えるようになった。長らく居座っていた希死念慮はいつの間にか私のもとを去っていた。
生きていろんなものが見たい、知りたい。ありとあらゆる関わりを記憶にとどめておきたい。人間が作った物も文化も時代も。そしてその大元である、自然も。まだ生き足りないのである。まだすべてを諦めるには早すぎて仕方がない。論理の眼鏡で繋がりが見えれば、可能性も見えてくる。
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